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2024.2.9 07:00ゴー宣道場

保守か保身か(その1)

世の中的に、政治には保守(右翼)とリベラル(左翼)という、大まかな勢力の分け方があり、相反する(と思われている)二つの勢力が議論で決めていけば、政治もいい感じになるんじゃないの?
みたいに思われているような気がしますが、そもそもこの構図がどうなんだろうと思っています。

身の回りから考えてみます。
会社組織で言ったら、ざっくり分けて、保守(右翼)は組織・お上・上層部を重視していて、リベラル(左翼)は管理職以外の下の立場の人たち・弱者を重視しています。
実際、社長や管理職の人たちは「私は会社のためにやっている」と思っている人は多いでしょう。
では世の中の、いわゆる上層部の人たちはみんな保守なのかと云えば、そんなわけがないのは明らかですね。
コロナ騒動でも、「私は会社のために感染症対策を呼びかけている 」という態度の人は、皆さんの周りにも少なからずいたと思います。
それはただ、世間の”コロナ怖い”の空気に屈して、保身をして、現場を無視して、仕事を妨害していただけでしたよね。
こういうことは、結局は「公」に向かっているか、「私」的な都合に終始しているかですが、その瞬間にはどっちなのかがわからない場合も多いです。
少なくとも、公のことを考えているなら、現場を無視して会社(と見せかけた自分)都合で動く人がダメなのは確かでしょう。
国レベルで言ったら「佞臣(ねいしん)」とか「奸賊」とか「売国奴」とか呼ばれかねない姿勢です。
(ちなみに自分は『戦争論』を読んでいたからか、コロナ騒動に限らず、「あ、この人、いま公をないがしろにして保身に走った」ということがなんとなく察知できるので、結果的に得してきたと思います。)

この「保守気取りが保身になってることがわからない」という点については、日本は集団・組織・国家のリーダーを育成する、あるいはリーダーは大事という教育をしていないということがあるのかなと思っています。
ただ指示を待つだけでOKなら、組織に対して無責任なままでいいですし、トップや上司が今「公」と「私」のどっちなのかを見分ける必要もないですね。
「公共心が大事」「その公共の範囲は国」ということも、『戦争論』で明確に提示されましたが、世の中的には公共心と言ったら、せいぜい「人に迷惑をかけない」という程度でしか理解されていませんし、
「国家観が大事」ということも教えていないので、いざ管理職になったときに困るか、何も理解していないまま管理して、現場無視の上司の出来上がり、という負のスパイラルなのでしょう。

ですが、もちろんこの公私の考え方は全く失われているわけでもありません。
ゲーム『ジャッジアイズ』内に登場する実在のいきなりステーキ社長の台詞として、こういうある説教が紹介されていました。

世の中は「こそ」の二文字の置き所、治まるもこそ、乱るるもこそ。

 

 

会社組織でも、家族でも、「自分こそが」とか言って、「こそ」を自分に付けたら絶対揉めるから、「君(or君たち)がいるからこそ、自分もこの立場がある」と言うべき、という話です。
ダメな指導者や、男系派の自称保守や、コロナ煽り・ワクチン盲信の人たちや、プーチンや、日米の左翼運動家は、見事なまでに「自分こそが」という態度ですね。
(例外として、トップにものすごい能力があれば、「自分こそ」でも成立はします。ワンマン社長というのは大体そうですし、夫婦でもそういう関係はあるだろうと思います。そういう人について行くかどうかはまた別の話ですが。)

端的に言って、保守なのかどうかは、文字通り「保ち守っているかどうか」で判断すればいいと思います。
本当に本心から国や集団組織や皇室を保ち守ろうとしている人が、「自分こそが守っている」なんて言うわけがありません。その時点で私心であって、公心ではないのですから。

ここまでは「公につくのが保守、私に流れるのは保身」という話をしてきました。
来週は、「では現在、保守を自称している人たちとは一体何者なのか?」をさらに分析していきたいと思います。

 

【ケロ坊プロフィール】
昭和53年埼玉県生まれ。2001年から3DCGデザイナー、主にアニメーションが多め。ゴー宣については薬害エイズ事件の時に同級生と「今日厚生省前で何かやってるらしい」と話した記憶あり。公論イベントのグッズデザインに関わる。好きなアニメは『ひな鳥の冒険』と『カーズ/クロスロード』。心のゲームは『スナッチャー』。魂の曲は『誰しもいつか止まる心臓を』。

 


 

 

【トッキーコメント】
よしりん先生が『戦争論』を描いた時は、「こんなものを描いたら出版界から干されるかもしれない」というリスクまで覚悟していました。
「私」のためだったら描かなかった。「公」のために描いたのでした。

『戦争論』によって言論空間の空気が変わり、安全になってから出てきた自称保守・ネトウヨは、単にこれを言えばマウントを取れるという「私」のみ。そこに「公」はありません。

この違いが分かっていない人が多いことには、本当に腹が立ちます。

 

 

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